小峰 尚(連理)

KOMINE Takashi


作家の言葉

 「陶―オブジェ―自由 について」 先頃、ある著名な美術評論家A氏の陶芸にまつわる出版の 記念パーティーが都内で開かれた。

それに出席すると、A氏の著作が一部渡されたので帰りの 車内でひとわたり目を通 してみた。

A氏の主張は、かつて僕が陶芸においてオブジェをつくり出す ために思い悩んだ問題点が、見る側の立場で論じられていた。 すなわち「陶芸に必然的な造形とは何か」、「土でなければ ならぬ理由は何か」、「土から陶へ」のプロセスそれ自体を 肉体化してはじめて、理由ある陶芸のオブジェたりうると。 陶芸を美術系の大学で学んだ者ならいざ知らず、僕のように いわゆる従弟制の中で職人的教育を受けて陶芸に踏み込んだ 者にとって、土を器にすることは自明のことであり、その技術を 身につけることは全く無自覚になされた。

つまり、造形の思想以前にまず素材があり、技術が身について しまったのだ。

そうした者が壷や鉢といった用途性を孕む器物から離れ、純粋に 自らの表現としての造形を試みるとき、一度身についた技術を 白紙に戻し、また素材すらも選択肢の一つに還元することは、 いかにももったいないことに思える。それゆえ、どうにかして素材 そして技術を生かせる、陶にとって必然的な、土にとって無理の ない造形を指向せざるを得ない。

そのようにして僕は「オブジェにしか見えない器」という着地点へ 辿り着いた。

それは器物として見える「起」から器物の性格をはみ出し始める 「承」、もはや器物性を失った「転」、全く別 の生命体となる「結」と いうプロセスをオブジェ作りの幹とすることであった。 これによって僕の創作活動は理にかなった道を歩んできた、と 思っていた。そしてかのA氏の論評も、「我が意を得たり」との思いで 心強く思ったものだった。

しかし今少しづつ変化しはじめている。 A氏の“「土から陶へ」のプロセスを経ない者は陶芸家ではない”という 言い表し方に、何か意にそぐわないものを感じる。いや、むしろ 危惧を抱く。

陶芸家であるとかないとかは問題ではない。プロセスが満足できる ものならすでにそれが評価されるかのような考え方はおかしい。 問題は、作品が陶に必然的であるとか土という素材に即している とかにあるのではない。と今は思う。

見る側の論理で言えば、あくまでも生まれ出された作品が心打つ ものであるかどうか、単純にその一点にかかっている。

つくる側の論理で言うなら、止むに止まれぬ思いが制作の中に あるかどうかにかかっている。 僕の場合、土はまだまだ使い尽せぬ自由さを保っているのだから、 土で可能なありとあらゆる創作を、何の規制もなしに続けていけば いいのだ。

その結果A氏が僕を「陶芸家ではない」と断じるなら、僕はそれを、 胸を張って受け入れよう。そんなことは小さな小さな問題なのだと。 そのような心持ちに至った今、アランの以下の言葉が以前にも増して、 広がりを持ちはじめた。

「人間は、あれを選ぶかこれを選ぶかという点で自由なのではなく、 かえって他の運を望まぬ ことによって、自然の事実から自由を つくりだすであろう。」



茨城県下館市出身
1978年 北海道大学卒業、旭川市 高橋武志氏に師事
1983 西茨城郡岩瀬町にて独立
1993 日本陶芸展  朝日陶芸展
1994 焼き締め陶展奨励賞
1995 陶芸ビエンナーレ
朝日陶芸展
国際陶磁器展 美濃
日本 陶芸展準大賞
1996 朝日陶芸展  益子陶芸展
1997 焼き締め陶展
21世紀アート大賞展
めん鉢大賞展 優秀賞
1998 朝日陶芸展
益子陶芸展
ビアマグランカイ
陶¨超¨展 ぎやらりいセンターポイント
1999 日本陶芸展 毎日新聞社賞
北関東陶芸展 招待出品
2000 「茨城陶芸の現在」(県陶芸美術館)出品
益子陶芸展
北関東陶芸展 招待出品
2001 日本陶芸展
北関東陶芸展招待出品
 
個展
ギャラリー蔵人(益子)「転生する器物たち」展
アートスペース城内坂(益子)「二十世紀末 祖国」展・
「大気も水も」展
ギャラリーキミ(下館) ギャラリーユリイカ(札幌)
ギャラリー蔵人(益子)「月光の中で」展
ギャラリー手鞠子(水戸)
ギャラリー邑(川口)「劇」的陶展
 
グループ展
ぎやらりいセンターポイント(銀座)「陶“超”展」
フロムゼロ(目黒・水戸)「内を見る」展
フロムゼロ(笠間)「焼きもの もう一つの世界展」









 


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W74×D72×H48cm
覚醒は始まった




W88×D88×H76cm
森閑




W30×D30×H25cm
転生する器物シリーズ
起承転結のうち「承」の作品 
「森閑」




W30×D20×H40cm
転生する器物シリーズ
起承転結のうち「転」の作品 
「冷ややかな炎」



最大50cm幅 40cm高
転生する器物シリーズ 起承転結のうち「結」の作品群

 

 
 日本陶芸展 準大賞・日本陶芸展賞
 小峰 尚 「覚醒は始まった」

井関正昭  

 土を素材にして最初からいわゆるオブジェを意図する作家とち がって、土を手にした陶芸家はどんな場合でもまず器を意図する のではないか、と小峰氏は語っている。つまり、必然的に土は容 器になるのである。
 だが、容器とは一体何だろう。何かを盛りつけることのできる ものすべてを容器というなら、形態はどんなものでもよいのでは ないかという発想から彼は出発したと思う。現代陶芸における形 態が多種多様であることは周知の通 りだが、彼の特質は、この形 態に一つの大きなダイナミズムと、かつてなかった空間性を与え た点にあるといってよい。
 内側が外側を決定し外側が内側を決定するその形態は、明らか に一つの容器であるが、この容器には何も入れなくてもよいから、 何か充実感のあるもの、生命を感じさせるもので満たさせたいと 考えたにちがいない。ダイナミックなリズム感をもった外形によって もたらされる内形の充実感によって、それは成功したといってよい。
 器としての使命を果たしながら、器を離れてオブジェ化したこの 小峰氏の受賞作「覚醒は始まった」は、今回作者の意志によって 第2部に出品されたが、第1部の審査員からも高く評価されたの は、こういった作者の意図が理解されたからであろう。前回の 第12回日本陶芸展の時に第1部に出品した同じ作者の作品「祭器 V」もすぐれた空間性を見せたが、装飾性と容器性のほうがまさっ た作品であった。今回の第2部出品作の空間把握は、これと比べ てはるかにまさるものがある。

 私がこの作品を最初に見て感じたのは縄文時代の火焔式土器の イメージであった。作者自身もまた、火焔式土器の造形力は自己 の原点であると語っている。そういえば、火焔式土器は果 たして 容器としてつくられたのだろうか、例えそうであっても、あの空間 把握の力強さは、ハーバード・リードが「芸術と人間の進化」 (1951)のなかで述べたように、歴史の上で人間は進化したかもし れないが芸術は少しも進化していない、という言葉を思い出させ る。
 この作品は、下半分はロクロを用い、上半部は手ひねりで練り あげて全体を整えたという。その整形は当初漠然としたイメージ から出発したが、人の脳の中身がこのイメージを決定した、と作 者は語っている。出っ張りの部分の艶出しは、焼成の前に磨き上 げ、炎の酔う状態での焼成に苦労があったという。この突起は全 体の有機的な形態に遠近感を加えてリズム感をいっそう強め、オ ブジェとしての機能を高めている。器でありながら新しい可能性 の提示、゛覚醒は始まった"のである。
 いずれにしても、この作品の空間感覚は、オブジェと容器の課 題を越えた、これからの現代陶芸の一つの方向を示唆しているか もしれない。



 日本陶芸展 優秀作品賞・毎日新聞社賞
  小峰 尚 「森閑」

武田厚 

 小峰さんはもともと伝統的な器を作っていた作家である。 その彼が今回の受賞作のようなオブジェへと作風を展開さ せてきたのにはそれなりの理由がある。制作コンセプトの 展開経緯について、彼は興味深い説明をしてくれた。
 その経緯を彼はまず「起承転結」に置き換えている。「起」 は伝統的な器制作の時代。「承」は器の形態を保ちながら器 以外の要素を加え始めた時代。例えば器の中に突起を作り、 器の機能性を除きながら別 のイメージによる造形へと徐々 に傾斜していったようだ。「転」は今回のオブジェである。器 的要素はすっかり影をひそめ、純粋にクリエイティヴな造 形を志した作品となっている。この作風の展開における冷 静な時系列的説明には納得させられるものがあるが、残念 ながら私はそれらをつぶさに見ていない。
 しかし、制作にあたっての彼のオブジェ的発想は、結局の ところ器から出発したものであることを自身は明快に自覚 している。「土による器」から「土によるオブジェ」への発想 の転換はごく自然に行われ、土という素材にこだわり、土に 相応しいオブジェとは何かを思考することも当然のことの ように行われてきた。「土が器になりたがる」といった抽象 的だが体感的な言葉を意識しながら作られていく彼のオブ ジェは、つまるところ、器作りの時代と制作の原点は一緒で あり、互いに表裏一体の関係を保ちながら成立しているも のだ、と私は理解した。

 1993年の第12回「日本陶芸展」カタログによると、第1部 (伝統)に入選した彼の作品「祭器」は、すでに器からオブジェ 風な形態へと変貌しつつあることがわかる。八つの器が変 形した形で合体されたような作品で、その制作手法の点で は今回の作品「森閑」と同種といえる。ちなみに小峰さんの 言葉を借りて今度の受賞作の制作手順を敢えて記すと、ま ず壷状の器8本をろくろで作り、それぞれを二股に分ける。 つまり16本とする。次にそれらを全部つないで(底部で)、そ れからさらに手びねりで成形する。地ビール瓶1本を粉砕 し、それらを内側低部にいれて焼く。窯詰めはこの1点のみ。 時間は15時間程。形態としては、彼にとってこれまでにな い複雑なものだったので、焼く間の不安は相当のものだっ たらしい。
 興味深いのはその形態に対する執拗なこだわりである。 93年の作品「祭器」でもこの度の「森閑」でも、動物的な膨張 力を感じさせる形の連続性によって、自身の云う得体の知 れない「生命力」を強くアピールしている。モチーフは主題 にある通り、針葉樹と広葉樹の林立した森のイメージにあ るようだが、見る側には、主題を忘れて、ただただ、自然の 生理的な運動体の奇妙さ、そのふてぶてしさが強烈に印象 づけられるものだ。
 今後のことだが、「起承転結」の「結」について小峰さんは こう語っている。「最後の結としては、節足動物になるよう な気がします。今度の作品をひっくり返してみると、その形 が何か生きたもののように見えてくるんです」。そして「結」 の後はどうなるのか、作り手としてのイメージと造形の自 由をこの作家は伸び伸びと楽しんでいる。その伸びやかさ が、彼の仕事の大いなる魅力となっている。


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