加藤安佐子

KATOH Asako


1938 北海道に生まれる
1939 金沢に移る    
1960 金沢美術工芸大学油絵科卒業
1972〜82 神奈川女流美術家協会会員
1979〜 女流画家協会会員
1980〜88 一陽会会員
1993  女流画家協会委員となる
個展
1975 県民ホール(神奈川)
1980 村松画廊(東京)
1983 村松画廊(東京)
1984 本町画廊(神奈川)
1986 村松画廊(東京)
彩林画廊(神奈川)
1989 ときわ画廊(東京)
彩林画廊(神奈川)
1990 村松画廊(東京) 
1993 ぎやらりいセンターポイント(東京)
パンデコンデザインセンター(東京)
1996 ぎやらりいセンターポイント(東京)
T・BOX(東京)
1997 アートフォーラム谷中(東京) 
1999 T・BOX(東京)
2001 T・BOX(東京)
2002 アート・フォーラム谷中(東京)
グループ展
1976 神奈川女流展 神奈川県立近代美術館賞
(横浜市民ギャラリー)
1977 現代日本美術展(東京都美術館、京都市美術館)
1979 現代日本美術展(東京都美術館、京都市美術館)
1980 神奈川県美術展 神奈川県立近代美術館賞
(県民ホール)
1982 TEN 82(東京・泰星画廊)
1983 PLAY 1983(東京・村松画廊)
1984 SPACE 7(東京・村松画廊)
1985 石川県作家選抜展(石川県立美術館)
「私が選んだ作家たち」展(神奈川県民ホール)
神奈川国際版画アンデパンダン展
(神奈川県民ホール)
1987 BOITES展(横浜・彩林画廊)
横浜ー光州現代美術展(神奈川県民ホール)
「今日の神奈川の画家たち」展(神奈川県内巡回)
翔展(横浜・彩林画廊)
1988 横浜―光州現代美術展(大韓民国・仁斎美術館)
1989 横浜―光州現代美術展(神奈川県民ホール)
1990 横浜美術展(ソビエト連邦・オデッサ東西美術館)
CAF展(埼玉県立近代美術館)
1991 横浜―光州現代美術展(横浜・大倉山記念館)
石川県移動美術展(石川県立美術館所蔵品展)
CAF展(埼玉県立近代美術館)
翔展(横浜・彩林画廊)
1992 横浜ー光州現代美術展(大韓民国・仁斎美術館)
クリハマ・マインド(横須賀・国立久里浜病院)
1993 石川県移動美術展(石川県立美術館所蔵品展)
CAF展(埼玉県立近代美術館)
1994 第2回国際小品展 佳作(ストックホルム)
第14回カダケス国際小品展(バルセロナ)
1995 石川県移動美術展(石川県立美術館所蔵品展)
神奈川国際版画アンデパンダン展
(神奈川県民ホール)
1996 石川県移動美術展(石川県立美術館所蔵品展)
CAF展(埼玉県立近代美術館)
第3回国際グラフィックアート展 佳作
(ストックフォルム)
1997 「現代美術の精鋭」展
(東京・プルミエ・ギャラリー)
1998 石川県移動美術展(石川県立美術館所蔵品展)
1999 GAUCHISSEMENT展
(東京・ぎやらりいセンターポイント)
2000

「気になる作家」小品展
( 東京・アートフォーラム谷中)
<PLUS et MOINS>展
(東京・ぎやらりいセンターポイント)
20世紀最後の小品展
(東京・アートフォーラム谷中)
石川県移動美術展(石川県立美術館所蔵品展)

2001  日仏現代美術展(東京:大森ベルポート)
作品収蔵 石川県立美術館
加藤安佐子の作品がご覧になれます)
神奈川県立近代美術館
神奈川県庁
仁斎美術館(韓国)
その他


加藤安佐子
展覧会発表予定
展覧会名:ディスカバリー
日時:2002年3月19日(火)〜 3月30日(土)
   11時〜19時 最終日17時 日・月曜日休廊
会場:アートフォーラム谷中
   台東区谷中6-4-7 
   Phone&Fax 03-3824-0804

   http://plaza8.mbn.or.jp/~yanaka


ASAKO KATO
Curriculum Vitae

1938 Born in Hokkaido
1960 Graduated Kanazawa College of Art, Ihikawa


One Man Exhibition
1975 Kanagawa Prefectural Gallery (Yokohama)
1980 Muramatsu Gallery (Tokyo)
1983 Muramatsu Gallery (Tokyo)
1984 Honcho Gallery (Yokohama)
1986 Muramatsu Gallery (Tokyo)
1986 Sairin Gallery (Yokohama)
1989 Tokiwa Gallery (Tokyo)
1989 Sairin Gallery (Yokohama)
1990 Muramatsu Gallery (Tokyo)
1993 Gallery Center Point (Tokyo)
1993 Pandecon Design Center (Tokyo)
1996 Gallery Center Point (Tokyo)
1996 T・BOX (Tokyo)
1997 Art Forum Yanaka (Tokyo)
1999 T・BOX (Tokyo)
2001 T・BOX (Tokyo)
2002 Art Forym Yanaka(Tokyo)

Public Collection
 Kanagawa Prefecture Modern Art Museum (Yokohama)
 Ishikawa Prefecture Art Museum (Kanazawa)
 Injae Art Center (Krea)
 Kanagawa Prefectural Office (Yokohama)







作家の言葉 (技法)
 手塗りとエアブラッシによってアクリル絵具をキャンバス上に重ね合わせ、素材自 体とエアブラシの透過光的な効果をできる限り利用する技法を試みている。また、複 雑な構成をできるだけ避け、形象の表現性にできるだげ頼らずに、曲線という単一の 要素を編み重ねることによって生ずる効果と、アクリル絵具とエアブラッシによって 生じる重層的色彩の効果だけによって、絵画空間に奥行きを与える技法を探求している。





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700×700cm

Acrylic on sheet iron
1989




130×162cm

Acrylic on canvas
1987



130×162cm

Acrylic on canvas
1997



162×162cm

Acrylic on canvas
1998



F6

Silk screen(Oil on canvas)
2000


 

美術手帖  1980.7月号      阿部信雄    

 加藤は、大学(金沢美術工芸大学)を出るまで、金沢に育ったそうである。五木寛 之がこの人の作品を見て、金沢の風景を想わせる、と評したという。じつは私自身 も、同じことを感じたのである。とは言っても、加藤の作品は具象的風景画ではな く、ライリーやヴァザルリに近い、オプティカルな抽象画である。近頃、風土性など 云々すれば、恐ろしく浅薄に聞こえるに違いないが、人の育った環境はそれほど軽視 できない。
 ひとりの人が、現在あるセルフ・アイデンティティー(自己同一性)を確立し得る に至るまでには、文字通り紆余曲折を経るのであり、生育史のさまざまな局面 の積み 重なりがある。ところが、現代人には、人格の統一性を保証する「芯」としてのアイ デンティティーを確立し得ない人が多い。それが、「同一性の拡散」ないしは「同一 性の混乱」と呼ばれる病理的現象である(エリクソン)。
   しかし、加藤には、こだわるべき何かがあるらしい。それを、前述したように金沢 である、としてしまっては、あまりに単純に過ぎよう。さしあたり私たちは、それを 穿鑿する必要はない。彼女のこだわりが、その作品に一種の安心感を与えていること が重要である。古い絣を想わせる色彩、鈍い光、エア・ブラッシュの見事な手際…… それらをとうごうする「芯」の存在が、作品の必然性を裏づけている、と言い換えれ ばよいであろうか。
 ただし、作品は、あまりにもけだるい。作者自身が、背を向けて、じっと坐り続け ている、という印象である。見る者は、背中を見つめながら、もどかしさを感じない わけにはいかない。ライフ・サイクルが巡るとともに、彼女が、こちらへ向きなおっ て、何かを明らかにしてくれることを期待しよう。  



「見る」という経験
   〜「みずみずしさ」は「かたち」の間から生まれる〜
 大村敬一


 「かたちあるものは、苦しくて描けない」と彼女は言う。しかし、彼女の手は確 実に「作品」という「かたち」を創り出して行く。たとえそれがストライプの重奏に よって束ねられた「かたち」のない色彩の波であるとしても、そこには見る者が視線 の深度によって捉えうる「かたち」の気配がある。人が空を、海を、そして「空間」 という絶対的な空虚の中に自己の鏡としての夢を見るように。
 加藤安佐子は、こうした非在の存在を描き、不在の物語を語ろうとしている作家の ように見える。人間が本質的に象徴を操る動物である以上、どんな存在にも必ず意味 が付与される。描かれたものは、たとえ描き手がそこに何の意味も意図していなかっ たとしても、見る者によって「かたち」と意味が与えられる。空の雲、波のうねり、 壁のシミ、読めない文字、そうしたはじめから意味が意図されていなかった存在、あ るいははじめに意図された意味が剥奪された存在に対してすら、人は執拗に「かた ち」と意味を与え続けようとする。しかし、彼女は自分の手が創り出して行く存在に 対して、いかなる意味をも剥奪してしまおうとしているかのようだ。何重にも重ねら れることによって、原形であるストライプですら失われてしまった彼女の作品に、あ る決まった一つの「かたち」を見いだすのは難しい。しかし、それでも、彼女の手は そこに存在してしまう「作品」という名の意味を生み出してゆくのである。
   こうした意味で、彼女の作品には常に、存在に対するアンヴィヴァレントな欲望が 介在している。彼女は「かたち」を描くのではなく、ストライプと色彩を重ねる。そ れはすでに意味を与えられてしまっている「かたち」であり、「色彩」であるとして も、彼女の重ねるという営みの中に、その「かたち」と意味は解体されてゆく。そこ に残されているのは、重なりの中でこそ逆に浮き彫りになってゆく「ずれ」だけであ り、そして、その「ずれ」が、崩されてゆく「かたち」の間に隙間を創り出してゆ く。その隙間に、非在の存在、あるいは不在の物語という、名付けられ得ぬ 「みずみ ずしさ」が一瞬のひらめきと共に芽生える。
 「かたち」と意味を剥奪してゆくこうした地平の先、重奏する「ずれ」の間に芽生 える「みずみずしさ」、それをいったい何と名付けることができるのだろうか。存在 と非在の間、意味と無意味の間に、視線が絡みとられ、終ることのない「見るもの」 と「見られるもの」との対話が発動するこの絵画平面という場に生まれるのは、その 対話の深さによってしか計ることのできない眼差しの深度、もはや「かたち」でも意 味でもなく、そこにあるかもしれない何かの予感なのかもしれない。他者を知ること によって自己を知るときのように、その予感は、非在によって存在を知覚し、失われ た過去の中に記憶という夢を見、解体してゆく「かたち」を超えて「私」という現在 を見る。彼女の作品は、「見る」という経験が発動するこうしたパラドクスを湛える 「視野の器」なのである。

 


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